忍者ブログ

草木は蒼々たり、雲気は騰々たり。

雷が運営するサイト・蒼雲草のブログページ。日々のことを書き綴る予定。あくまで予定。

有沢氏についての覚書

ブツメツフツマというツイ企画に「有沢実智」というキャラクターを投稿したのだけど、キャラの背景設定を深める手掛かりになるかもしれないと、「有沢」という姓氏について調べていた。

要は、「有沢」を名乗る氏族の血統や始祖について文献を読みあさっていたのだ。

 

手始めに『姓氏家系大辞典』を確認したところ、およそ、以下の6系統があると分かった。

1. 天武天皇の末裔である有沢氏。

2. 藤原南家の有沢氏。

3. 越中の有沢氏。

4. 土佐の有沢氏。

5. 信濃の有沢氏。

6. 松江の有沢氏。

 

1について詳述すると、承和8(841)、天武天皇の子・長親王の六世孫や七世孫にあたる王や女王ら16人が"有沢真人"の姓を賜ったのが、「有沢」の始まりという。

有沢姓を賜った16人は、長親王の五世孫である乙雄王の子や孫にあたる。

また、貞観14(872)には、有沢真人春則ら男女9人が"文室真人"の姓を賜ったともいう。

文脈を踏まえると、この文室姓を賜った9人も乙雄王の子孫らしい。

 

2は、藤原南家為憲流工藤氏流六郷氏の当主・六郷道行の弟・勝元の後裔のこと。

六郷道行は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将である。

道行の子・政乗は秀吉に臣従したが、のちに家康に味方して関ケ原の戦いで軍功を挙げた。

以後、六郷氏は代々出羽国本荘藩主を務め、明治に至ると子爵に封じられた。

勝元や、勝元が「有沢」を名乗るようになった経緯については、正直よく分からない。

 

3は、越中国婦負郡有沢村を拠点とした有沢氏。

もともと土肥氏の臣下で、天正11(1583)には、政繁の将・有沢五郎三郎が、佐々成政の軍勢を相手に奮戦して重傷を負った。

のちに成政は秀吉に降和、さらに上杉景勝とも講和し、景勝の臣であった政繁は有沢采女を、成政も別の人質を互いに差し出した。

『越登加三州志』は「婦負郡有沢村に有沢采女が居住していたらしく、だから有沢姓が多いのだろうか」という具合に書いている。

 

4は、土佐安芸郡を領した安芸氏の家臣だった有沢氏。

永禄12(1569)、長宗我部に安芸城が攻められて安芸国虎が自害したとき、有沢石見も殉じた。

国虎の死後7日目には、国虎の妻を逃がした黒岩越前も、主君の墓前にやって来て自害した。

安芸市の浄貞寺にはいまも国虎の墓があり、その左右にふたりの老臣の墓が並んでいる。

 

『南海通記』には、元亀元年(1570)に安芸城が攻められたとき、防衛にあたった「有沢という者」が二階孫右衛門に討たれ、国虎と「黒岩という者」も自害したとある。

しかし国虎が自害したのは前年のことなので、誤伝ではないかと思う。

 

5は、信濃国諏訪郡を拠点とした有沢氏。

『諏訪郡諸村並舊蹟年代記』には、栗林山永久寺の裏に有沢氏の屋敷跡があると書かれている。

諏訪の氏族・神の、親縁であるともいう。

 

6は、松江藩と支藩・母里藩の重臣だった有沢氏。

松平直政のとき、家老である初代有沢織部直玄が、山荘と土地を賜った。

享保3(1718)、楯縫郡川下村に外国船が来泊したときは、弌胤が兵を率いて発砲し船を追い返した。

松平不昧のとき、5代有沢弌通が一歩庵宗佚を号して茶道を伝え、以来有沢家は代々茶人を輩出し、不昧流を称した。

 

とりあえず、こんなところ。

 

※参考文献

太田亮『姓氏家系大辞典 第一巻』(姓氏家系大辞典刊行会 , 1934)

栗田寛『新選姓氏録考証 巻之一』(吉川弘文館 , 1900)

高知県 編『高知県史要付録』(高知県 , 1924)

近藤瓶城 編『史籍集覧 第七冊』(近藤出版部 , 1906)

諏訪史料叢書刊行会 編『諏訪史料叢書 巻14(諏訪史料叢書刊行会 , 1930)

東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第十一編之三』(東京大学 , 1930)

藤本充安 編『島根県史要』(川岡清助 , 1907)

本荘市 編『本荘市史 史料編 II(本荘市 , 1982)

PR

コメント

プロフィール

HN:
Webサイト:
性別:
非公開

P R