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「アリアクネ」という言葉がある。
英雄テセウスを迷宮から脱出させるために糸玉を用意したアリアドネ(Ariadne)と、
女神アテナと機織りの技を競ったせいで蜘蛛の姿に変えられたアラクネ(Arachne)。
ギリシア神話に登場するふたりの女性、その名前を合成したのがAriachneである。
Shakespeare(1602)が『トロイラスとクレシダ』に登場させたのが、Ariachneの初見と思われる。
もちろん誤字や誤植の可能性もあるけれど、「シェイクスピアがふたつの寓話を混同していたとしても、それは同時代の人々がしていたことと大差なかった」という指摘もある(Ingleby, 1867)。
つまり17世紀の西洋人は、アリアドネとアラクネをしばしば混同していた可能性があるのだ。
調べてみると、同じ17世紀の文献で「Ariachne」が登場するものが見つかった。
『The Generall History of Women』では「パラス(アテナ) は老婆に変じて、アリアクネと競った」と語られ(Gent, 1657, pp.71-72)、
『Palaestra Eloquentiae Ligatae』では「アリアクネとファランジス」という言い回しが使われている(Masenio, 1654, p.162)。
これらが、アリアドネとアラクネを混同した実例といえそうだ。
ところで、アリアクネと並べて用いられていた「ファランジス(Phalangis)」とは、何だろうか。
これはギリシア神話の、非常にマイナーなバージョンに登場する人物のことであり、Phalanxの異綴らしい。
別伝のあらすじは、以下のとおりである。
アッティカに、ファランクスとアラクネという、ひとくみの兄妹がいた。
ファランクスはアテナから戦争の術を学び、アラクネは縫織の技を教わった。
しかし兄妹は近親相姦を犯してしまい、怒った女神はふたりを蛇に変えた。
また『博物誌』は、アラクネの息子について言及している。
プリニウスは「羊毛をつむぐための紡錘はアラクネの息子クロステルが、糸と網はアラクネ自身がつくりだした」と語っているのだ。
アテナに挑んで蜘蛛に変えられた他にも、兄ファランクスと交わったり、息子クロステルを生んだり、
さまざまな別バージョンの伝説が、アラクネにはあるらしい。
参考文献
Beagon, M. trans.『The elder Pliny on the human animal: Natural History, Book 7』(Oxford, Clarendon, 2005, p.102)
Brunel, P(1988)『Dictionnaire des Mythes Féminins』(Monaco, Rocher, 2002, p.146)
Gent, T. H.『The Generall History of Women: of the most holy, and prophane, the mos famous, and infamous in all ages』(London, W.H. for W.H. 1657)
Ingleby, C. M.『The Still Lion』(Deutsche Shakespeare -Gesellschaft, Jahrbuch, Berlin, 1867)
Masenio, I.『Palaestra Eloquentiae Ligatae, novam ac facilem tam concipiendi, quam scribendi quovis Stylo poëtico methodum ac rationem complectitur, viamque ad solutam eloquentiam aperit』(Coloniae, Typis & sumptibus Wilhelmi Friessem Bibliopolae, 1654)
Noel le Comte『Mythologie c'est-à-dire Explication des Fables』(Lyon, chez Paul Frelon , 1600, p.786)
Shakespeare, W.『Troilus and Cressida』(1602)
エンプソン, W. 著, 星野徹, 武子和幸 訳『曖昧の七つの型』(思潮社, 1972)
バージェス, A. 著, 川崎淳之助 訳『その瞳は太陽に似ず』(早川書房, 1979)