雷が運営するサイト・蒼雲草のブログページ。日々のことを書き綴る予定。あくまで予定。
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小寺無人『アガシラと黒塗りの村』(産業編集センター, 2024)を読んだ。
巨人伝説をモチーフにしていると聞いて、「ほほう、それは興味深い…」と取り寄せた一冊。
ほら、俺って、研究室に「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」という論文もどきを公開しているしさ。
さてさて小説を読み始めて、まっさきに登場するのは「べったん湖」という地名。
いかにも巨人の足跡にできた沼池らしいネーミングが心をくすぐる。
次に「セイタカ様」と呼ばれる、巨大な地蔵。
つい「制多迦童子」との関連を疑ってしまったけど、ここは素直に「背高様」で良さそう。
さらに「こしかけ山」。
なるほど、山に巨人が腰かけたという伝説は各地にある。
そんな民俗好きにはたまらないキーワードが続出するかたわらで、殺人事件が発生する。
事件をめぐるミステリーと推理劇が展開されるのと並行して、
主人公・黒木は、友人から依頼された古文書の解読を進めて、
逗留先である旧家の来歴と、秘匿された村の歴史をつきとめる。
いわゆる「因習村モノ」の系譜につらねることもできそうな作品だけど、
読み心地は終始さわやか、登場人物はみな現代的な感覚を持ち合わせていて、
「因習にとらわれている」一部の登場人物の造形も、イヤミが無い。
殺人事件をめぐるミステリーも、ちゃんとミステリーミステリーしている。
衒学的、というと悪口に聞こえちゃうだろうけど(実際、辞書的にはネガティブな意味合いが強い)
こんなふうに大量の知識と豊富な情報を、読者にあびせかける、『ダ・ヴィンチ・コード』のような作品が、
俺は大好物なんだと、あらためて思った。
口承文芸研究家・安井の論説場面なんか、モロ好みだもんね。
Pixiv企画「ソウル・バース・スピアヘッド」に参加するにあたり、
ひとつ気になることがあったので調べものをしていた。
ソバスピはいわゆるポストアポカリプスの世界観で、災厄に見舞われたかつての日本を舞台に、
企画参加者は3つある陣営のひとつを選んで、荒野と砂漠で生きる人々をロールプレイする。
物語舞台であるニホン(旧日本)はヒガシとニシに二分されており、両者は対立関係にあるが、
緩衝地帯として「チューブ」を設定したことで、とりあえず今は平穏を保っている。
このチューブは、ギフ、トヤマ、イシカワ、アイチ、シズオカを圏域に含んでいるが、
あきらかに現代日本の中部地方と岐阜県、富山県、石川県、愛知県、静岡県をモデルにしている。
しかしこの「チューブ」の現在の圏域は、ヒガシとニシの浸出によって支配地を削られた結果らしく、
過去のチューブの圏域は、もっと広大な範囲に及んでいたと考えられる。
では、最盛期のチューブの圏域は、どれほどの広さだったのだろう。
現代日本における「中部地方」の扱いから、推測してみたい。
そもそも中部地方の範囲は、法令によってバラバラで、まったく定まっていない。
たとえば国土形成計画法は、中部圏は「愛知県、三重県その他政令で定める県の区域」としており、
国土形成計画法に規定される国土形成計画との調和を保つとされる中部圏開発整備法は、
「富山県、石川県、福井県、長野県、岐阜県、静岡県、愛知県、三重県及び滋賀県の区域」の9県としている。
国土調査法施行令では8県を中部としており、さらに東西ふたつのエリアに細分化して、
中部東は「新潟県、山梨県、長野県、静岡県」、中部西は「富山県、石川県、岐阜県、愛知県」としている。
人事院中部事務局は「富山県、石川県、福井県、岐阜県、静岡県、愛知県、三重県」(7県)を管轄する。
中部地方環境事務所も同じく7県を管轄するが、内訳は「富山県、石川県、福井県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県」と、入れ替わりがある。
警察法は中部管区警察局の管轄区域を「富山県、石川県、福井県、岐阜県、愛知県、三重県」(6県)としている。
この管轄区域は、司法にかかわる名古屋高等検察庁や名古屋高等裁判所の管轄区域と同じであり、
受刑者の仮釈放などについて判断・決定する中部地方更生保護委員会の管轄区域とも一致する。
このように、同じ行政機関であっても、どの県を中部地方に含めるかはそれぞれ異なっている。
しいて中部地方の「最大範囲」を想定するなら、
「新潟県、富山県、石川県、福井県、山梨県、長野県、岐阜県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県」の11県になるだろうか。
これを踏まえると、ソバスピに登場するチューブの最盛期の圏域については、
「ニイガタ、トヤマ、イシカワ、フクイ、ヤマナシ、ナガノ、ギフ、シズオカ、アイチ、ミエ、シガ」と考えられる。
ニイガタ、ナガノ、ヤマナシはヒガシに、フクイ、ミエ、シガはニシに削り取られたと想定できそうだ。
※参考文献 大明堂編集部 編『新日本地誌ゼミナールIV 中部地方』(大明堂 , 1983 , p.222)
Pixiv企画「ソウル・バース・スピアヘッド」に投稿した自キャラのシャルマは、「エルフとオーガのハーフ」だ。
エルフの母から魔力とすぐれた五感を、オーガの父から怪力を受け継いでいる。
ところでエルフと人間のハーフなら「ハーフエルフ」、オーガと人間のハーフなら「ハーフオーガ」と呼ぶのがシンプルだけど、
エルフとオーガのハーフなら、なんと呼ぶのがふさわしいだろうか。
たとえば『指輪物語』にはウルク=ハイという種族が登場するけど、このウルク=ハイについては、
映画「ロード・オブ・ザ・リング」では、オークと人間を掛け合わせて造り出された種族と説明されている。
いってみれば、オークと人間の「疑似的な」ハーフであると考えることもできそうだ。
「エルフとオーガのハーフ」にも、「ウルク=ハイ」のような呼び名を設定している物語作品があるだろうか。
あった。
「ダンジョン・アンド・ドラゴンズ」に、N'djatwa(ンジャトワ)という種族が登場するのだ。
ただし、とんでもなくマイナーな種族らしい。
ファンサイトでも「D&Dというゲームの歴史上、もっとも無名な種族」といわれる始末だ。
ンジャトワは、ながらく対立していたオーガの氏族Nunjarと山のエルフHatwaが、
予言に従って和解し、両族の混血をすすめることで生まれた種族だという。
オーガの身体能力とエルフの知性をあわせもつが、他種族を奴隷にするなど非常に野蛮な性質もそなえている。
とくに食文化については嗜好が残虐で、血なまぐさいことこのうえない。
正直、自キャラの種族名を「ンジャトワ」とするのは憚られる。
イメージが悪すぎる。
というわけで、いまのところシャルマについては、
「エルフとオーガのハーフ」という表現におちつきそうです。
※参考文献
・Moore, R. E. ed.「Dragon Magazine Iss.158」(Lake Geneve , 1990.6)
・1d6chan>N'djatwa(https://1d6chan.miraheze.org/wiki/N%27djatwa)(2024.8.14)
ずいぶん前にWikipediaでキマイラのことを調べていたら、トルコ版の記事に「キマイラはベレロフォンによって地下七層に落され、今もそこで炎を吐き続けている」という記述を見つけたことがある。
キマイラは、火炎を吐く怪物で、頭が獅子、胴がヤギ、尾は蛇という異形の姿をとる。
姿形については、獅子とヤギの双頭だとか、尾も蛇そのものだとか、有翼だとか異説も多い。
この怪物はリュキア(現在のトルコ南西部)に棲みつき、町を襲って人々を苦しめていた。
そこで勇者ベレロフォンがペガサスを駆ってキマイラに挑み、みごとキマイラを討ち倒した。
これが、ギリシア神話のキマイラにまつわるエピソードの大筋だ。
しかしトルコの伝承では、少々様子が異なる。
ベレロフォンがペガサスに乗ってキマイラと戦うのはそのままだけど、ベレロフォンは槍を振るって、キマイラを7層の大地の底に叩き落とすのだ。
地底に閉じ込められたキマイラは炎を吐き続けており、その炎は、いまも地上で燃え続けているという。
この「キマイラが吐き続けている炎」が地上に現われたのが、ヤナルタシュの炎だという。
ヤナルタシュとは、トルコ語で「燃える石」という意味で、国立公園内にある天然ガス源のこと。
岩の谷間から噴出するガスは燃え盛り、その火が消えることはない。
んで、肝心の「キマイラは7層の大地の底に閉じ込められた」という部分の出典が、いまいち分からない。
当該伝承を記載している旅行ガイドもあるけど、文面がWikiの記事とそっくりで、出版年も考え合わせると、どうしても完コピを疑ってしまう。(Sari , 2018 , p.52)
地元の自治体やホテルの公式サイトにも関連記事があるから、根も葉もない話ではないはず。
アクデニズ大学のサイト内にも、この伝承についての研究ノートらしいページがあったけど、URLを失念し、当該ページにたどりつけなくなってしまった。
二度と手掛かりを失わないよう、こうして覚書きを残しておく。
Sari, E.『Terra Magazine (Hazİran Sayisi)』, 2018.6
Ford Hotel「Chimera」(https://www.fordhotel.net/chimera-liva-160.html)(2024.5.13)
T.C. Kemer Kaymakamlığı「Chimera/Yanartaş」(http://www.kemer.gov.tr/chimerayanartas)(2024.5.13)
「井の中の蛙、大海を知らず」とは、狭い知識で物事を見ること、という意味の慣用句だ。
語源は荘子の「井蛙不可以語於海者、拘於虚也」だけど、日本では「このことわざには、じつは続きがある」という言説が流布している。
この"続き"とやらのバリエーションは様々で、「井の中の蛙、大海を知らず。されど空の青さを知る」「空の高さを知る」「空の深さを知る」などがある。
さらに「井の中の蛙、天を知る」という言い回しもあるらしい。
これは陶芸家・河井寛次郎の造語で、河井は1962年に「井蛙知天」の書をしたためており*1*2、「自分は日本から一歩も出たことはないが、井の中の蛙天を知る――で天の広さを知っている」とも語っていたっぽい。*3
どうやら、この「井蛙知天」が、「井の中の蛙、大海を知らず」の"続き"の初出のようだ。
また、北條民雄は1937年に「井の中の正月の感想」で、ハンセン病にかかって隔離生活をすることになった自身の境遇について「かつて大海の魚であった私も、今はなんと井戸の中をごそごそと這ひまはるあはれ一匹の蛙とは成り果てた」と嘆きながら、「とはいへ井の中に住むが故に、深夜冲天にかかる星座の美しさを見た」「大海に住むが故に大海を知ったと自信する魚にこの星座の美しさが判るか、深海の魚類は自己を取り巻く海水をすら意識せぬであらう」と主張している。*4
「井戸の中を這いまわる蛙」と「中天にかかる星座の美しさを見た自身」とを対比させていて、河井の「井蛙知天」の精神的祖型といえそうだ。*5
さらに、「井の中の蛙大海を知らず、しかしよしのズイから天をのぞいたら、また別に新しい人生もあろうというものだ。新しい世渡りの發見!」という詩も見つけた。*6
「葦の髄から天井を覗く」とは、細い葦(よし)の管を通して天井を見るように、狭い見識で物事を考える、という意味の慣用句。
井の中の蛙も、葦の髄も、どちらも知識の狭さをいましめる言葉なのだけど、後者については新しい視点に立つ」というようなポジティブな使い方をしていて、意味合いを逆転させているのが面白い。
ちなみに「葦の髄から天井を覗く」は、「管見」と同じく、自身の見識を謙遜する言い回しとして使われることもあるらしい。
他方、「井の中の蛙大海を知らず、されど井の深さを知る」という表現もある。*7
いままで挙げてきた例と違い、手が届くことのない天空ではなく、自分が今いる井戸に視線を向けた表現で、個人的にはこちらの方が好みだったりする。
ついでに、検索している最中に、ある人物を「決して井の中の蛙的ではなく、大海の青龍であろふ、が而し如何にしても活動の天地が狭いが故、思ふ中途にも行くまい」と称賛している文章も見つけた。*8
蛙から龍へ、井戸から大海そして天地へとスケールアップする表現に、心くすぐられる。
1. 森本 , 2018
2. また、河井は雑誌『民藝』への寄稿文の小見出しを「井蛙知天」としている。(河井 , 1965)
3. 国民生活研究協会 , 1959 , p.6
4. 北條 , 1937
5. そもそも北條の「井の中の正月の感想」は、ハンセン病患者を「井の中の蛙」になぞらえた関西MTL理事・塚田喜太郎の差別的・嘲笑的な論稿「長島の患者諸君に告ぐ」に反論するため書かれたものだった。
6. 大山 , 1951 , p.124
7. 吉岡 , 1997
8. 平山 , 1913 , p.25
参考文献
・大山広道『世渡りの道 処世百科事典』(鷺ノ宮書房 , 1951 , p.124)
・河井寛次郎「六十年前の今(40)」(民藝148 , 日本民藝協会 , 1965.4)
・塚田喜太郎「長島の患者諸君に告ぐ」(山櫻18(10) , 1936.10)
・平山清治郎『名士の応対振り』(香鹿民友社 , 1913 , p.25)
・北條民雄「井の中の正月の感想」(山櫻19(1) , 1937.1)
・森本泉「酷暑のなか、涼しい美術館で「民藝」の巨匠と出会う」(WebLEON FROM EDITORS , 2018.7 , https://www.leon.jp/editors/8820)
・吉岡忍「日本の南の端にこんな場所がある ひとがみな自分の家で死ねる島」(文芸春秋75(2) , 1997.1)
・産業と生活(19)(国民生活研究協会 , 1959.11