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ディズニーが実写映画「白雪姫」を公開したのをきっかけに、Twitter(現X)で白雪姫のネーミングの由来が話題になっていた。
いわく、肌が雪のように白かったから「白雪姫」と名づけられた。
いわく、雪の日に生まれたから「白雪姫」と名づけられた。
結論からいえば
「肌が雪のように白かったから『白雪姫』と名づけられた」が、もっとも矛盾がない。
原作グリム童話を読んでも、「雪の日に生まれた」という記述は見あたらないので、「雪の日に生まれたから説」は、すみやかにしりぞけることができる。
ただし、「肌が雪のように白かったから説」も、無条件で支持できるものではない。
原作では、白雪姫の肌が白いとは、明言されていないからだ。
「雪の日に、王妃が、黒檀の枠の窓辺に座りながら裁縫をしていると、針で指を刺してしまった。
すると傷口から3滴の血が落ちて、白い雪を赤く染めた。
雪が血に染まる様子を見て、王妃は『雪のように白く、血のように赤く、髪が黒檀のように黒い子が生まれよ』と願った。
まもなく、そのとおりの女の子が生まれて、女の子は白雪姫と名づけられた」
これが白雪姫の誕生譚である。白雪姫の肌が白いとは明言されていない。
ちなみに物語の後半で、赤いのは頬であると説明されている。
この内容は1857年版(第7版)のものだ。
グリム童話は1810年の手書き原稿から、1812年版(初版)、1819年版(第2版)と改訂をくりかえしており、1857年版が決定版とされる。
手稿と各版は、プロットの大枠は同じだが、細かい記述はさまざまに異なる。
1810年の手稿(エーベンベルク稿)では、王妃は「雪のように白く、頬が血のように赤く、眼が黒檀のように黒い子が生まれよ」と願っている。
ここでは、赤いのは頬とされ、黒いのは髪ではなく眼とされている。
なお髪の色については、中盤で黄色であると説明されており、初期設定では、姫は黒髪ではなく金髪だったと分かる。
あいかわらず、肌が白いとは明言されていない。
1812年の初版や、1819年の第2版では「雪のように白く、血のように赤く、黒檀のように黒い子が生まれよ」と願う。
1812年版はそのとおりの子が生まれるが、1819年版では黒いのは髪であると補足される。
そして1812年版も1819年版も、終盤の描写で、赤いのは頬だと分かる。
ひきつづき、肌が白いとは明言されない。
つまるところ、1810年、1812年、1819年、1857年いずれのバージョンでも、グリムは「白雪姫の肌が白い」とは書いていないのである。
だが「まあ、白いのは肌だろうね」と万人が察するところだろう。
白くて赤くて黒い女の子が生まれました。
赤いのは頬で、黒いのは髪です。
では、白いのは何でしょう?
こんなふうにクイズを出されて「白いのは心です」などと答える人は、むしろ少数派だと思いたい。
順当に考えれば、外見で分かるもの――つまり肌が白いのだろうと推測するのではないだろうか。
念のために、その他のありえるパターンも考えてみよう。
眼球が白い。
なくはないが、ムリがある。
そもそも1810年版での白雪姫は「雪のように白く、頬が血のように赤く、眼が黒檀のように黒い子」だった。
彼女の死体の描写でも「もしまぶたを開いたら、その眼は黒檀のように黒いはずだった」と説明していた。
死んでいて、しかも大事に棺に納められていたら、まぶたが閉じているのが自然だろう。
そこで「もしまぶたを開いたら」と仮定の話をもちだすのは唐突だし、どうも違和感がある。
おそらくそれを反省したのだろう。1812年版では眼の説明を省略、1819年版で黒いのは髪であると変更された。
こうした経緯を踏まえると、眼球が白いという推測は、合理的ではない。
歯が白い。
なくはないが、やはりムリがある。
そもそも生まれたばかりの赤ん坊には歯がないので、無い歯をさして「雪のように白い」とは表現できない。
たとえ白いのが歯だったとしても、死体を描写する場面で「もし口を開いたら、その歯は雪のように白いはずだった」と、これまたヘンテコな説明をするハメになったに違いない。
歯が白いというのは、考えにくい
その他の体の部位が白い。
なくはないが、どうしてもムリがある。
頬は赤、髪は黒もしくは金で確定している。
頬や髪とは別の部位――たとえば額や鼻、のど、手足などが白いという可能性はあるが、それなら、どの部位が白いのかあいまいにしておく理由が無い。
たとえば「鼻がしらが雪のように白く、頬が血のように赤く、髪が黒檀のように黒い子」と書けばいい。
これ以上ない特徴だ。キャラも立つ。
しかしそうしなかった理由は、白いのが「一部」ではなかったからだろう。
全身の肌が白かったと考えるのが、やはり自然だと思うのだ。
>小沢俊夫『素顔の白雪姫: グリム童話の成り立ちをさぐる』(光村図書出版, 1985)
調べ物のために、古い小説を手当たり次第に読みあさっていたのだけど、
そのなかで次のような一節を見つけた。
「魔法で人を殺せるなんていう考えは、何百年かむかしの話……
二十世紀の今日じゃあ、全然通用しませんね」*
物語の舞台は、とある実業家の邸宅。
誰も出入りできないはずの部屋から忽然と姿を消した女性が
翌朝、その部屋で、胸を刺されて殺された状態で発見された。
思わぬかたちで密室事件にたちあった新聞記者は
まるで魔法が使われたようだと戸惑っていたが、
そんな彼に、現場にやってきた刑事が言って聞かせたのが、
さきの一節だった。
だが待ってほしい。
魔法を人で殺せるなんていう考えは、たしかにむかしの話だ。
しかし何百年かむかしの話というほど、古くはない。
「およそ妖術毒薬を用い人を殺すものは、おのおの謀殺をもって論ず」と
妖術によって人を殺した場合の刑を定めた「假刑律」が編纂されたのは、
明治元年――1868年のことで、くだんの小説は1956年の発行である。
假刑律編纂から小説が書かれるまで、たった88年しかたっていない。
「何百年かむかし」というほど、古い話ではない。
人々はごく最近まで、魔法や妖術で人を殺すことができると、
ほんとうに信じていたのである。
* 高木彬光「鏡の部屋」(邪教の神, 東方社, 1956, p.147)
小寺無人『アガシラと黒塗りの村』(産業編集センター, 2024)を読んだ。
巨人伝説をモチーフにしていると聞いて、「ほほう、それは興味深い…」と取り寄せた一冊。
ほら、俺って、研究室に「琵琶湖と富士山をつくった巨人の伝説」という論文もどきを公開しているしさ。
さてさて小説を読み始めて、まっさきに登場するのは「べったん湖」という地名。
いかにも巨人の足跡にできた沼池らしいネーミングが心をくすぐる。
次に「セイタカ様」と呼ばれる、巨大な地蔵。
つい「制多迦童子」との関連を疑ってしまったけど、ここは素直に「背高様」で良さそう。
さらに「こしかけ山」。
なるほど、山に巨人が腰かけたという伝説は各地にある。
そんな民俗好きにはたまらないキーワードが続出するかたわらで、殺人事件が発生する。
事件をめぐるミステリーと推理劇が展開されるのと並行して、
主人公・黒木は、友人から依頼された古文書の解読を進めて、
逗留先である旧家の来歴と、秘匿された村の歴史をつきとめる。
いわゆる「因習村モノ」の系譜につらねることもできそうな作品だけど、
読み心地は終始さわやか、登場人物はみな現代的な感覚を持ち合わせていて、
「因習にとらわれている」一部の登場人物の造形も、イヤミが無い。
殺人事件をめぐるミステリーも、ちゃんとミステリーミステリーしている。
衒学的、というと悪口に聞こえちゃうだろうけど(実際、辞書的にはネガティブな意味合いが強い)
こんなふうに大量の知識と豊富な情報を、読者にあびせかける、『ダ・ヴィンチ・コード』のような作品が、
俺は大好物なんだと、あらためて思った。
口承文芸研究家・安井の論説場面なんか、モロ好みだもんね。
Pixiv企画「ソウル・バース・スピアヘッド」に参加するにあたり、
ひとつ気になることがあったので調べものをしていた。
ソバスピはいわゆるポストアポカリプスの世界観で、災厄に見舞われたかつての日本を舞台に、
企画参加者は3つある陣営のひとつを選んで、荒野と砂漠で生きる人々をロールプレイする。
物語舞台であるニホン(旧日本)はヒガシとニシに二分されており、両者は対立関係にあるが、
緩衝地帯として「チューブ」を設定したことで、とりあえず今は平穏を保っている。
このチューブは、ギフ、トヤマ、イシカワ、アイチ、シズオカを圏域に含んでいるが、
あきらかに現代日本の中部地方と岐阜県、富山県、石川県、愛知県、静岡県をモデルにしている。
しかしこの「チューブ」の現在の圏域は、ヒガシとニシの浸出によって支配地を削られた結果らしく、
過去のチューブの圏域は、もっと広大な範囲に及んでいたと考えられる。
では、最盛期のチューブの圏域は、どれほどの広さだったのだろう。
現代日本における「中部地方」の扱いから、推測してみたい。
そもそも中部地方の範囲は、法令によってバラバラで、まったく定まっていない。
たとえば国土形成計画法は、中部圏は「愛知県、三重県その他政令で定める県の区域」としており、
国土形成計画法に規定される国土形成計画との調和を保つとされる中部圏開発整備法は、
「富山県、石川県、福井県、長野県、岐阜県、静岡県、愛知県、三重県及び滋賀県の区域」の9県としている。
国土調査法施行令では8県を中部としており、さらに東西ふたつのエリアに細分化して、
中部東は「新潟県、山梨県、長野県、静岡県」、中部西は「富山県、石川県、岐阜県、愛知県」としている。
人事院中部事務局は「富山県、石川県、福井県、岐阜県、静岡県、愛知県、三重県」(7県)を管轄する。
中部地方環境事務所も同じく7県を管轄するが、内訳は「富山県、石川県、福井県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県」と、入れ替わりがある。
警察法は中部管区警察局の管轄区域を「富山県、石川県、福井県、岐阜県、愛知県、三重県」(6県)としている。
この管轄区域は、司法にかかわる名古屋高等検察庁や名古屋高等裁判所の管轄区域と同じであり、
受刑者の仮釈放などについて判断・決定する中部地方更生保護委員会の管轄区域とも一致する。
このように、同じ行政機関であっても、どの県を中部地方に含めるかはそれぞれ異なっている。
しいて中部地方の「最大範囲」を想定するなら、
「新潟県、富山県、石川県、福井県、山梨県、長野県、岐阜県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県」の11県になるだろうか。
これを踏まえると、ソバスピに登場するチューブの最盛期の圏域については、
「ニイガタ、トヤマ、イシカワ、フクイ、ヤマナシ、ナガノ、ギフ、シズオカ、アイチ、ミエ、シガ」と考えられる。
ニイガタ、ナガノ、ヤマナシはヒガシに、フクイ、ミエ、シガはニシに削り取られたと想定できそうだ。
※参考文献 大明堂編集部 編『新日本地誌ゼミナールIV 中部地方』(大明堂 , 1983 , p.222)
Pixiv企画「ソウル・バース・スピアヘッド」に投稿した自キャラのシャルマは、「エルフとオーガのハーフ」だ。
エルフの母から魔力とすぐれた五感を、オーガの父から怪力を受け継いでいる。
ところでエルフと人間のハーフなら「ハーフエルフ」、オーガと人間のハーフなら「ハーフオーガ」と呼ぶのがシンプルだけど、
エルフとオーガのハーフなら、なんと呼ぶのがふさわしいだろうか。
たとえば『指輪物語』にはウルク=ハイという種族が登場するけど、このウルク=ハイについては、
映画「ロード・オブ・ザ・リング」では、オークと人間を掛け合わせて造り出された種族と説明されている。
いってみれば、オークと人間の「疑似的な」ハーフであると考えることもできそうだ。
「エルフとオーガのハーフ」にも、「ウルク=ハイ」のような呼び名を設定している物語作品があるだろうか。
あった。
「ダンジョン・アンド・ドラゴンズ」に、N'djatwa(ンジャトワ)という種族が登場するのだ。
ただし、とんでもなくマイナーな種族らしい。
ファンサイトでも「D&Dというゲームの歴史上、もっとも無名な種族」といわれる始末だ。
ンジャトワは、ながらく対立していたオーガの氏族Nunjarと山のエルフHatwaが、
予言に従って和解し、両族の混血をすすめることで生まれた種族だという。
オーガの身体能力とエルフの知性をあわせもつが、他種族を奴隷にするなど非常に野蛮な性質もそなえている。
とくに食文化については嗜好が残虐で、血なまぐさいことこのうえない。
正直、自キャラの種族名を「ンジャトワ」とするのは憚られる。
イメージが悪すぎる。
というわけで、いまのところシャルマについては、
「エルフとオーガのハーフ」という表現におちつきそうです。
※参考文献
・Moore, R. E. ed.「Dragon Magazine Iss.158」(Lake Geneve , 1990.6)
・1d6chan>N'djatwa(https://1d6chan.miraheze.org/wiki/N%27djatwa)(2024.8.14)